昭和48年02月17日 朝の御理解



 御理解 第50節
 「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」

 この通りであります。不毛の地いくらよい種を蒔いても、全然芽も出らないと言った様な土地が有ります。草も生えないと言った様な土地がある、不毛の地と申します。それでも日頃、肥やしをやる事に努めておると、いわばやせた土地も段々肥えてくる。ひとりでに物が出来るような、よいものが生えよいものが稔る道理じゃと。だからとかく信心は地を肥やせとこう言う。信心は地を肥やせと言う事は、どう言う事だろうか。
 第一にあげなければならんのは、大地のような信心をする事。どのような嫌な事でも、汚いものでも、いうなら黙って受け抜かせて頂くという、大地の心になる事だと思うんです。これは愈々心が豊かに肥えて来る事間違いない。又は信心は地を肥やせと言う事は、先祖を大事にすると言った様な事も有ると思うです。根を肥やさずして枝葉の栄えた試しがないと言わる位ですから。根を肥やしておけば、やはりひとりでに枝も栄えてくるし、花も咲くし実も稔る訳であります。
 昨日は上野先生の所の、式年の霊祭がありました。それから引き続いて、矢次さん所の、年々の謝恩祭がございました。いうならば上野先生とこの場合は、根を肥やされた訳である。矢次さんの所は、日頃頂いておるおかげに対するお礼。いわゆる感謝のお祭を捧げられた訳である。矢張りこれは地を肥やす事になるでしょうね。所がいくら地を肥やしましても、確かに芽は切る葉はしこっていくけれども、花も咲かなければ実りもしないと言った様な事もあると事を、知らなければいけません。
 昨日矢次さんの所でお話させて頂いたんですけれども。ここに久富先生がパイナップルの上の所を切ってですね、それを砂に生けておられるのです。そして陽当たりのよい温室のごたる所に、共励殿の南側のお縁の所に、いつも置いてあるです。それがやっぱり下に根が出てるんでしょうね、こう綺麗にオモトか蘭の様に葉がしこっているです。昨日私気がつかせて頂いたんですけれども。そして根本に又小さい株が一株出来とる。けれどもこれは、いかに大事にした所でです。
 あれでパイナップルの実が稔る訳もなかろう、花も咲く訳なかろうとこう思うのです。だからそういうのをいかに大事にした所でです。そう言や誰々さん何々教会の、〇〇さん等は、本当にあれだけ熱心な信心が出来ておられるのに、花の咲いた風も聞いた事がない、実が稔ったとも、あんまり見らないと言った様な人が、沢山ある事です。だから本当に間違いのない所に、焦点を置いての地を肥やすでなからんとです。
 肥やしたが肥やした事にならん。所謂ひとりでにものが出来てこないと言う事実をです。私共はそこに発見したら、是は大いに考え直さなければいけない。地が肥えてくる。自分の心が、段々豊かになってくる。本当にあれも有り難い、是も有り難いと心の中に有り難いというものが、感じられる様な風もないとするならです。それは丁度パイナップルを植えておる様なもんじゃなかろうか植木鉢にですね。
 こう一杯しこっていきよるとじゃん。株まで出来よる。けれどもそれでは大した事はない。だから私は今日は、今日私が御神前で頂いた事と、この五十節がどういう風に繋がるかは分かりませんけれども、今日はだから地を肥やせと言う事を、今日私が頂いた事に焦点を置いて、ひと言聞いて頂きたいと思う。例えば信心を熱心にしておった人達が、信心を止めたり。熱心に信心しておった人達が、信心が疎かになっていったり。本当に私に力の無い証拠。私に魅力がなくなった証拠。
 愈々力を頂き愈々魅力ある信心を頂かなければならないなぁと、私は思わせて頂いたら、私の信心として頂く事はね、丁度それこそ素晴らしい芸者さんの立ち姿を頂いた。芸者さんの正装とでも申しましょうかね。紋付を着て白い生地の博多帯ですかね、それをもうそれこそ触れば、解けはせんかと言った様に、緩ぅい感じでしてある。後ろの方はだらりに帯がなっているですね芸者さんは。そしてこの辺の所にそれこそ、粋に使い紙がこうやって入れてある。テレビなんか皆さんご覧になるから。
 芸者さんのこしらえ姿と言うものを知っておられるでしょう。あの姿を頂くのですよ。私の信心は確かにですね、そういう意味の所に、魅力が有るのじゃないかと思うのですね。まぁえらいこうだらしがないごとある。もうそれこそ信心の帯をしっかりせよと仰るが、ちょいと見た目にはもうちょっと触ったら、ぽろっとほどけだんせんじゃろぅかというごたる感じが有るけれども、実際はどっこい絶対ほどけない。芸者さん達は下の方がきちっと締めてあって、上の方はもう緩くしてありましょう。
 もう今にもずんだれはせんじゃろうかと。中々粋な姿です。しかもそこに使い紙がこう、挟んでありますね。後ろを向かれると帯はだらり、いかにも信心はだらっとしとるごたる、緩んでおるごたるあって実際は緩みもせん、それでいていつも神様を見せておる。紙を見せておる。ハッキリここに生きた神とは、こういうものぞ生きた神の働きとは、こういう事ぞと見せておる。此の頃から二日間にわたって統一教会という。
 朝鮮人の人が教主だそうですが、日本の早稲田大学出だそうですから、非常に教学的な宗教で若い人達がもう本当に呆けてしまう位ですから、やっぱりその教理というのが、素晴らしいのでしょう。それを二日間にわたって、私にお話をしに来て下さる。だから私も又聞いて貰う。昨日上野先生が、お取次ぎさせて頂いておる時に、そのお母さんがお参りをしてみえてから、娘が申しましたと。もう兎に角、合楽の信心の素晴らしいのに驚いたと。いうならば、挟むところがない。
 それはどう言う事かと言うと、私がここにハッキリ、生き生きとした神様を、表しておるからなんです。それから言うておる事に、挟む余地がないほど、道理に合うておるからです。この宗教はまぁ私詳しくは聞かないけれども、大体頂く所によりますと、例えて言うと帯なら帯を織っていくなら、横糸だけは見事にピシャーッとあるけれども、縦糸がね、バラバラしかないというのです。
 だからあなた方の宗教は、大体そう言う様な所が、横に広がっていくと言う事は、見事に繋がっていきよるけれども、縦の繋がりが無い。いわゆる天地との繋がりが無い。神様との繋がりがあやふやである。これでは本当なものを織り上げていく事は出来ない、と言う事を頂いたんですけれども。例えば他宗派の人が見てもです、他の金光教ならば、非難する所は有る。まぁ金光教のいけない所は、沢山知っておるけれども、ここの先生の話を聞いておったら、いわばここは可笑しいですねと言う所がない。
 今迄は和賀心時代を創るというのを、よく熟読しておられます。二人乍らその先生達が。まだ若い二十幾つの先生達です。しかも久留米にその教会が有る。その教会の先生です。ですからそれを熟読しておられる。それで私が頂いておる金光教よりも、もっと素晴らしいなら貴方達の宗教に、私はなってもいいち。それが教祖も喜ばれる返って。と言うて言うもんですから、素晴らしいと言う事を、熱心に言うて来て下さる訳でしょう。それで厚い本をどうでも、これを読んでおってくれと言うて一冊置いて有ります。
 けれどもどんなに考えても、私から聞きよると、まぁつまらん宗教だなぁとしか思われんのです。もう何と言うですか人間の難儀の焦点、難儀のいわゆる原点、原理というものです。いわゆる原理を説くという宗教なんですね。人間の難儀の元というものがです、もう私に言わせると実にくだらない。けれども理屈は有る、何冊の本にでも表せるだけのものが有る。それは例えて言うならばです。
 そんなら人相学なら人相学易学なら易学でもです。それを系統立てると一つの学問になったり、何十冊かの本になる様な矢張りものが有ると言う事。けれどもそう言う事は人間の幸不幸には、お道の信心で言うと大した事はない訳です。何故って神様はどういうお粗末御無礼が有ってもどういう名前が悪かっても、家相が悪かってもです。神様にお願いをし又はいけない所は詫びれば許してやりたいのが親心と仰るのですから。
 同時に金光教で言う所のこの、和賀心というこの信心には、一切がもう太陽の前の星のようなもんです。消えてなくなる程しのものなんです、和賀心の前には喜びの前には。教祖が仰る喜びの前には。ですから私はここん所を言うたら、一辺におしまいになるから、私が黙って言わんのです。最後の所で言おうと思ってから。と言う様にですそんなら合楽の信心というものを、見聞きだから私がお話をここで聞いとってあい間に、お参りをしてくると、そんなら私が今朝から話したお話を聞いて下さいと。
 二日とも聞いて貰う。それで昨日そのお母さんが、合楽の信心は素晴らしい、金光教は駄目だけれど、と言った様な意味の事を言われたと言う事を、上野先生が言ってます。それはどう言う事かと言うと、所謂今の芸者さんの立ち姿じゃないけれども。大変な魅力と言うか、ハッキリここにを表しておると言う事、見せておるという事。一切を見せながら聞かせながら、お取次ぎをさせて頂いておると言う事なんです。
 私は今日はこの地を肥やすという事をです。今日は私は教会を肥やす、親先生を肥やすと言う所に焦点を置いて聞いて貰おうと思っております。それ程しの素晴らしい神様を現しておられ、それ程素晴らしい魅力を持っておられる親先生を頂いておるのですから。この親先生の言われる事にいうならば、神という字が示す申すという字で出来ておるように、親先生の仰る事を神様の仰る事として頂いてです。
 それを畏み畏み頂いていく以外にはないと言う事。その事がです私は教会を肥やす事であり、親先生を肥やす事。何が何と言うてもどんなに、私は大事にされてもです、私の信心を粗末にされるならば、もうその人に私は魅力は感じません。どんなに信心が分からんと言うてもです親先生の信心に、本当に帰依しきって私の信心を、大事にして下さるならば、もうこんなに嬉しい有り難い事は有りません。
 最近私がここで言わせて頂いておる、和賀心時代を創ると言う事の信心から、五つの願いと言った様なそういう、親先生が今それに取り組んでおられるから、私共もそれに分からせて貰うて取り組ませて頂こうと、本気で取り組んでおられる方達程、私を肥やして下さる、私に帰依しておって下さると言う事になるのですから、こんな嬉しい事は有りません。これが一番の私への、言うならば親を根と言うならば、教会を私共のおかげを頂く場であるとするならば、こんなに素晴らしい、地を肥やす事は有りません。
 そんな事を私、色々お知らせを頂いて、思わせて頂いておりましたら「タイトルマッチ」と言う事を頂いた。これはレスリングか何かで使いますね。タイトルマッチか何かという言葉を。私はだからその意味は知りません。けれどもこれは私なりの解釈の仕方ですけれども。タイトルというのはかかげてあるという事だと思う。今合楽でかかげてあるものは、所謂五つの願いと言う事になるのじゃないですか。マッチと言う事は、私はマッチするという意味に頂いたんです。
 いうならばそれにピッタリと、寄り添うと言う事なんです。見合うと言う事なんです。マッチしておると言う事。もう本当に合楽が赤になった時に、皆さんも赤になってしまう。白になったらこの頃から赤と言いよって、もう白ち言うたってなんてん言わずに、又白になってしまう程しの素直さ。これが私はタイトルマッチと言う事だと思ったです。お取次ぎを頂いて起きて来る事、よい事悪い事みな良い。お取次ぎを頂かずして、起きて来る事、よい事悪い事みな悪い。と言った様な、正確な答えが出て来ると言う。
 所謂なる程お取次ぎを頂いて、親先生任せになり、親先生が今言うておられる事に傾倒する。それをそのまま素直に頂くと言う事がです、私は地を肥やす事になるから、どんな場合であっても、「先生お願いしまぁす」と例えば火急の場合であってもです。ひとりでにものが出来るようなおかげが頂ける。今日はだから私は地を肥やすと言う事を、教会を肥やす、親先生を肥やすと言う事を、今申しますように、所謂タイトルマッチと言う様な言葉で聞いて頂いた。
 それを皆さんが、傾倒出来れると言う事の、これを私が自称する訳ではないけれどもです。なる程神様が私の信心を、芸者さんの立ち姿それは見事な粋な姿で、見せて下さるようにという位に魅力が有る。芸者さんを嫌いという人は知らん。だから緩んでおるごたる帯を、親先生は信心が緩んであると、見違える人は知らん。どうも親先生の信心はキザだと言う人は知らん。けれどもその姿に、本当に見とれる程しの魅力を感じさせるものを、合楽には、持っておるという事なんだ。
 他宗派の人ですらがいわば、なぁにも言う所がない程しのものなんです。それは私が言うておる事と、ここで現しておる事が、あまりにもピタッとするし、言うておる事はどこまでも、天地の道理に即応した事であるからだと、私は思うのです。愈々皆さん私が言うておる事をです、本当に神様の言葉として示して下さる、言うて下さっておるんだという頂き方をもってです。それに本気で寄与させて貰う、参向させて貰う。それを畏み畏み頂くという頂き方こそがです、私は地を肥やす事だと。
 そういう信心になるならば、いつでも何時でも「親先生お願いします」と言う所から、おかげになる。所謂ひとりでにものが出来るようなおかげの基礎というものが、そのようにして出来て来るんだと。勿論地を肥やすと言う事は、先にも申しました、色々有りましょう。勿論自分の心を肥やすと言う事、大地の心になる事根を肥やす事、所謂先祖を本当に大事にする事、まあ色々有りましょうけれども。
 今日は私は親先生を肥やす。親先生はもうどんなに皆さんが大事にして下さっても、私の信心を疎かにして下さるなら、もう私は決して喜びません。けれども私が何故って一番大事にしておるものを粗末にされて喜ぶ筈はないじゃないですか。私が一番大事にしておるものを、皆さんも一緒に大事にして下さる事によって私が喜ぶ。私が喜ぶと言う事は、金光大神が喜んで下さる事、神様が喜んで下さる事だと、信じての事なんですよね。
   どうぞ。